ゆうべはみうらじゅんさんと
渋谷公会堂でライブでした。
楽屋にきてくれた
スチャダラのANIは、
うちらの投げたサイン入りボールを
GETしたそうです。
ちょうど観に来てくれてた
マルベル堂のカメラマン中村さん(私の隣)、
「それちょうだい。」
に、笑いました。
初対面なのに。ハハハハ。
躊躇せずに渡したANIも、やさしいね。
参加してくださった皆さん、
どうもありがとうございました。
私よどこを向いているの。
「自己中心」という言葉は
悪いことのように使われてきてて、
私も嫌ってたのですが。
ところが、なぜか
「全体を上手にまかなえる人物像」ほど、
逆に「自己を真ん中に大切にできる」
とも言えないでしょうか。
まずは自分の感情を
理性でコントロールできるというか。
あんまりヒトのために
殺さないというか。
「アタシ、自分を殺して、
ヒトのために頑張ってるのにい!!」
という人は、なんだかいつも
うまく行かない。
そして、必ず
そうでないヒトの批判や、
やたらな自己卑下を繰り返します。
この理不尽さに注目しました。
会社でも水商売でも芸能でも
同じかも知れませんが、
お客様に向かって、まず最初は
自己犠牲をしたくなるもの
なのです。
ところが
いっけん(めっちゃすごいサービスを!)
(アタシ、頑張ってる!)
なようで、まず、現実的には
案外ロクな結果が
待ってはいません。
こないだ私は、
あるできたばかりの
カフェに行き、
過剰なサービスをされました。
定価がけっこう安かったのに、
高級フレーバーの茶葉であろうと
感じさせられる紅茶。
そこにクッキー2ケが
ついてきた。
「手作りです」、と書いてありました。
この店は長続きしないな、と
思いました。
ホントにそうなりました。
こういうサービス、
リクツでは喜べるはずなのに、
なんだか体感ではお客は
重いものなのです。
腰の低い「店主」の思いや、
善良さが、なんとも言えず
こちら「客」に負担を感じさせる。
この理不尽さは、
育児にも似てるかもね?
お客さん(というか世間一般誰も)は、
意外とチマチマ、コマゴマと親切に
されたくないもの。
なんでこんな店がこんなに業界人を呼べる?
とか、
なんであんな女に客がつく?
とか、
なぜにあんなタレントが売れてる?
など、疑問を持ったならば、
よ~く見てみれば、きっとそこに
「風」とか「スキマ」を
見つけられるかもしれません。
おそらく、いつでも
スッカスカ!
ともかく「情」はいつも
自己欺瞞に似ているし、
「愛」はあんがい
まずは自己中心も大切なんだと
思わせてくれるもんですね。
ずいぶん前の話。
私の友達が、
いろんな人が出る
前衛的なライブを観に
行った時のこと。
詩の朗読コーナーがあり、
メルヘンな感じの女性の
特徴的な朗読に、
うっかり笑いそうになったとか。
「卵の 親は ピーヨコちゃん じゃ?」
みたいな感じにも聞こえる内容で、
(笑うな笑うな笑うな)
そう自分に暗示をかけてたそうです。
そしたらなんと、その女性の背後から
数名のダンサーたちが出てきて
朗読に合わせた、
静かで不思議な呼吸の踊りを
踊りはじめたらしいのです。
(これはもしかしたら、
笑わせてるんじゃないか?)
と、思ったほどだったそうです。
常識人として客席にいたかった
友人は、はじめはつねったりして
ガマンしてたんだけど、
ニヤニヤがだんだんくすくすに
なってもよくなった頃、
つまりはまわりの皆も
(ウフフ)、くらいならなんとなく
アリになってきた感じの頃。
急にこんなセリフを叫ばれ、
客席全員が、急ブレーキ!!
だったそうです。
「感じてください!!命の尊さ!」
印籠のような言葉に、
ふいをつかれ、なんとなく
申し訳ございません!
だったそうです。
ピタ。し~ん。
何もここで急に
出さなくても、、、、と
その友人はブツブツ
こぼしてました。
命の縮まる思い、
という点では、
その尊さも強く
共感できてたかもしれません。
笑ってしまった。
花びらのあの
ピラピラした質感、
ピンキングばさみで
切ったようなデザイン。
どうしても好きになれない、、、。
そう思っていたカーネーションを
ながめていた10代のころ。
これはきっと、
大人の花なんだろうなあ。
母の日の花、という
イメージがまた
なんともいえない「圧」を
かもしだしてくるような、、。
清貧、慈愛、地道。
うわあああ。
しかし、これは私がまだ
母親じゃないからだ。
大人になって、
この花をもらえば
きっとわかるのだ。
ありがとう!
そう言いながら
抱きしめる、、、。
しかし、、、。
母親になっても
やっぱり好きになれない!!
じっくり見たけどダメだった!
花に個性があるんだから、
やっぱ相性ってのがあるんだろうな~。
くれませんように
くれませんように。
私にはそんな花言葉なのでした。
百合飾っちゃった。
矢野顕子さんが家に
遊びにきてくれました。
すごいフレーズ。
急に家の中が
ゴージャスになった感じ。
でも、きさく。
電車でテクテク徒歩で来られたうえ、
すぐ近所にある、私にはおなじみの
洋服屋さんで買い物をし、
そこのお婆ちゃんの介護の話まで
聞いてきたそうでした。
ウケる、、、。
ごはんを御一緒しながら、
色んな話ができました。
おみやげに、「たねや」のお菓子や、
かわいいデザインのキッチンペーパーを
もらちゃった。
昔から紙製品に目のない
矢野さんですが、
こういうものを
プレゼントしあうのって、
女の特権かもしれませんよね。
私はテーブルに
出し忘れた「筍ごはん」を
おみやげに渡しました。
紙をもらって、ごはんを渡す。
むかし話みたいですが。
まあともかく特別に
よい日曜日となりました。
テレビを見てたら
20代らしきレポーターが、
一般の70代の方に
会ったとたん、「若い!」
と、叫んでました。
年配者を見たとたんに
すぐに「若い!」と
言ってしまうこの
一連の流れは、
見てるこっちも
すでにそれが普通なくらいに
慣れてしまっているものでした。
つまり本当は、誰も
どういう70代が「普通」なのか
わからないのではないか。
いましたこの人、
という「ミスター70代」が
芸能人でも見つからないのです。
ノーマルな70代、
どこにいるのでしょう。
といって
「あ~、70代ですか~。
またこれは
めっちゃ妥当なセンで!」
とは、どんなキャピキャピした
愛らしい声でも
口にできまい。
つまり、ハッキリ言って、
60代も80代も90代も
もう会ったとたんに「若い!」
と、もはやそれはまるで
魔除けみたいな
呪文みたいなことに
なってしまうしかないのかも。
「ヨ!!」「よいしょっと!」
みたいな合いの手というか。
「汚ねえババアだな!」
などと、大声で言っても愛される
毒蝮さんのような
人間の器が、それを思うと
かえって尊いような
美しいようにも感じて
しまうのでした。
あ、かと言って
私に投げかけないで~。
(あきらめないで~の言い方で)