家族旅行
お正月休みが
変なカタチであるので、
「女芸人たちと行く
ベガス海外旅行」の誘いも断り、
家族でジミに
温泉一泊旅行のみにしました。
そしたら思いのほか、
話し合えたというか
調和できたというか、
(旅とは心身をリフレッシュするもの)、
という意味を生まれて初めて
味わえたような気持ちに
なれたのでした。
私は一人づつを
(恥ずかしながら)
ちゃんと吟味しつつ、
この家族のジンブツが
好きであるなあ。
などと、あらためて
思えたのでした。
めでたしめでたし。
それなのにですよ!
なんだか帰りには、わけもなく
淋しく、空しくなっちゃった。
おかしな話じゃないですか。
プラマイ=ゼロ、ではなくて
プラマイ=マイくらい。
帰宅してから、
言いました。
「今までにないくらい
すご~くいい旅だったってのに、
今はアタシ、なんだか、
しょぼーんとしちゃってんの。」と。
コドモ、
「わ!わかる。何なんだろうね。
全くおんなじ事思ってたさ。
じっさい楽しかったのにさ、、、。
なんだろ。
なんでなんだろう。」と、
自分の中の不思議を見る
みたいなカンジでした。
オットもどことなく、
空しい気持ちを持ちながらも、
見ないフリをしてアゲておこう。
という顔だった。
つまりは3人とも、なんだか
それぞれにシラけたのだ。
「幸福な家庭なんて、幻想だ」
なんて言うのは、
こういうところに
あるのかな。
だったら、またこの不思議を
味わってもみたいけど。
行きでも帰りの電車にも、
車内には私たちに似た
形態の家族の光景が
めずらしくはなかった。
一見すると平凡すぎて
わからない。
混在するこの複雑な思いが
あっての形態っての。
あんがい同じなのだろうか?
たとえば旅行がつまらなかったら、
それはそれで笑いになったりして
愚痴をこぼしながらも
次への旅への期待となったりする。
けれども、今回みたく
よかった時、
それはそれで
めちゃ悲しみに襲われますよ
ってのには 意表をつかれる。
人には口には出さない
距離が必要だ。
かといって一定で、
ずうっと上手く
あり続けてしまう
安定というのも、また空しいのだ。
何なんだこれ。
まったくもって、
家族旅行は
数年に一度でこりごりだ。